かつてのMBAプログラム実経験その2

エピソード #7

MBAプログラム3学期間の学業を経て一旦インターンとして働くこととなりました。先ずはそこに至るまでからです。

仕事説明会など

様々な会社が学校にやって来ては説明会を頻繁にやっていました。その一環でGSの場合は本社に出向いて説明を聞いたのでした。そういえば何故かわざわざ会社に出向いたのは後にも先にもあそこだけだったという謎。ただ説明会というのは基本誰でも参加でき、ただ会社の宣伝を聞くわけで直接面接に繋がるという訳ではありませんでした。

そういった説明会の一環のようなイベントで忘れられないもののもう一つがJPモルガンの社長が学校に来た時です。彼とその側近数人が先ずはプリゼン、その後レセプション(アルコールと軽食)。その社長と直接話もできたしそりゃあもう緊張したものでした。

GSのイベントの時はどちらかといえば人事の人が説明していたという感じで、実際のディールメーカーによる込み入った内容、というものではありませんでした。それと比べこの時は社長と側近何人という正に会社をリードする連中が現場の声を直接伝えに来た。鼻息荒く参加した生徒はJunだけではなかった筈です。

そのイベントに向けて配られていたチラシ

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こういう形式のイベントはその社長なり話題の中心となる人がいて、その周りに当然沢山集まるわけですが、そんな中いかに自分が発言権を得て話をリードするか、これメタクソ大変というか、そういう訓練をおよそしていない日本人は超苦手なことでしょう。

また俺の話を聞け!と言わんばかりにクソ張り切るのもひんしゅくです。我ら日本人はただその場でぼーっと突っ立って聞いてるだけ、というのは有り勝ち。

偉そうな事をのたまふこのJunも当然こういうのは苦労しました。ただそういったイベントに積極的に参加を重ねたお陰様でいい訓練になりました。考えてみればまだどこの社員になったわけでもない。それこそ興味の無い会社の説明会にでも出て恥をかこうが何だろうがそのイベントでの発言訓練になればいいんです。そう、そもそも学生なんだからそういう点では何でもあり、と開き直るのが肝心でしょう。

説明会とは別に、面接を目的としたイベントもありました。それには我らMBA生徒が一斉に面接したい会社へ申し込むのです。ただそれでは人気のある会社に何百人とか応募者が殺到するので面白い制度がありました。

一人確か100ポイント(1000だったかもしれない…忘れた)をもらいその面接イベントに合わせてどの会社と面接をしたいか、そして何ポイントそれに使うかを申請するのです。例えば第一志望のところに40,残ったポイントは30ずつもう二つの会社に申し込むと。それで申し込まれた側の会社は、単純にポイントの高い生徒から何人まで、というところで面接を行うのです。成績も履歴も関係なくある意味フェアなシステムで、高いポイントを第一志望に絞り、それこそすべてをかけてなら他の会社への面接は不可能になりますが、確実に面接ができる、と。

ただこの制度はあっという間に問題に直面しました。何故ならいくつかの超人気企業に全ポイントをつぎ込んで来る生徒が殺到したのです。

その後このシステムがどのように改良されたかは全然知りませんが、そういった弊害、すさまじい競争ぶりを聞いていると、すっかりやる気がなくなりました。トップクラスの会社には100ポイント全てをつぎ込んで面接に挑む覚悟の生徒が、しかも相当数いる。

その人達は当然今までアメリカで生まれ育ち、エリート大学卒などなどの輝かしいキャリアを積んできた既に選び抜かれた人達。そんな連中を相手にのこのこ日本から来て何とかやっとそういう超エリートと席を並ばせてもらっているJunという現実。このシステムから上手く仕事にまで辿り着くのは無理なのでは、と思いそもそもポイントは使う事もありませんでした。

この件に関してとある日本人の先輩に相談をしました。このような状況でどのように就職活動をすればいいのかと。まず最初に言われた事が、大学院を卒業して最初の就職先はとにかくあまりに競争が激しく、希望の、ましてや人気企業への就職は宝くじとまではいかなくても実に狭い門だと。それこそマラソン大会で何万という選手が一斉にスタートを切ってみんなが同じゴールに同時に向かい精一杯走る。そこで勝利を得るのはやはり困難を極めると。MBA生徒がみな足並みをそろえて1学期、2学期、就職活動、と進むのはまさにその何万人マラソン大会と同じだ、というような事だと。

学校での面接ポイントシステムも考えてみれば正にそれ。しかもそれこそ同期の何百人が全100ポイントを使ってGSやマッキンゼーに応募とかいう状況。その対策というのではなく、先輩はそんな事よりも、兎に角どこでもいいからインターンをやって、そこで次のステップを考えるのがJunには一番大事な筈だ、と説得してくださいました。それではそういう事に、と気を取り直して「どこでもいいから」インターンを目指す事としました。だったら例えば3流の会社に100ポイント全部使って面接にこぎつける、という手もどうか、という意見もあるでしょうが実はその必要がなくなったのでした。

インターン職ゲット

いきなり思いもよらなかった話が転がり込んできました。実家の父の友人の関係でかつての国立銀行、「ナンバー銀行」の一つ、実家の地銀が当時NYCに進出しており、そこでのインターンの話が湧いて出てきたのです。Junが大学生の時に留学を決意し、色々な準備をしていた時にうちの親は親なりのネットワークを使い、誰か息子(Jun)の留学の助けになる人がいないかと色々と探してくれました。実はその延長でインターンの宛を見つけ出してくれていたのです。

NY支店長のNさんと面接して直ぐ、この方は中々の切れ者、という感じでした。NYの支店長を任されるだけの事はある、という印象を凄く強く受けました。そして次長のKさんはナンバーツーという立場でしたが、もの凄い日本人サラリーマンの雰囲気が出ている方。

当時ちょうどアメリカ人の従業員が二人も退職、小さい職場では大打撃、またその地銀では社員のMBA派遣などもなく、そういった生徒がどういうものかという興味があったようでした。お影でJunをインターンとして採用を決定していただけました。

その地銀ですが、当然大学院でのクラスメートの間ではそれを知る人は皆無でした。しかし先輩に言われた様に、何でもいいからそれをステップにやってみる事が肝心だと自分にも言い聞かせました。実はどういう仕事を短期間に任されるかも基本知らないという状況。しかし自分にはそれに全力投球する事しか道はありませんでした。

インターン職開始

実際に仕事が始まり何を任されるかと思いきや、随分適当な事を頼まれました。どうしてそもそも雇われたのか?と疑問になるほどでした。しかしそこは時間がいっぱいあったので自分で無理やり仕事を作るかの如く模索を始めました。仕事を始めて直ぐ気が付いた驚き事情がいくつもありました。

当時のテクノロジー事情でしたが、ノートブックパソコンを持っている人はかなり珍しい時代。Junはそれでもってオプションのクラスで授業中にも即計算ができたりと使いこなしていたのですが、なんとこの会社のPCは実にポンコツで、Junのノートブックパソコンの方が遥かに高性能だったのです。

そのポンコツPCのモニターに向かいインターンとして働くJun

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かつてのウォール街では、今では使う人がほぼいないであろうロータス123というスプレッドシートが主流でしたが、徐々にエクセルが台頭し始めた頃でした。会社のパソコンにもエクセルが入っていて使われていました。しかしです。その使い方が実にとんでもなかったのです。

会社にいたとある若いスタッフに、どういう使い方をしているか聞いたらその彼女は丁寧に教えてくれました。その方はファイナンスなど全く無知な模様、ただ日本語ができてその枠で入社した方でした。上から言われた事を忠実にやっていたようでしたが、彼女の教えてくれたPCによる作業は驚き(でたらめ)だらけでした。

スクショはその例を説明するのに作ったものですが、1月から3月までの売り上げがあり合計が出てます。当然その合計(セルのB5)はその三か月の売り上げを合計したものと式に書いておけばいいのです(=SUM(B2:B4)というの)。ところがこの会社はそれをやっていませんでした。なんと先ずは電卓で100+150+200を計算して、その答え450が出たらその450という数字をこのスクショでいえばセルB5に「450」と打ち込んでいたのです。この程度の簡単な計算ならまだしも、実際は相当数の計算をまずは電卓でして、結果の数字を入力。エクセルはテーブルを作るのに便利でしかし表計算のプログラム、という使い方は一切していませんでした。

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あと利回りの計算式も間違っていました。その彼女はこうやって電卓で計算する、と教えてくれましたが「あ、これファイナンスのクラスで習ったやってはいけない例のやり方現場でやっている!」と即思ったところでした。言われたままにやっている彼女に罪はありませんが、その指示をしてきたマネジメントは何者か、と思いました。

PCクラッシュ

その出鱈目さに気付いたのとは別に、たまたまシステムの営業の方が来て、ターミナルのアップグレードをして色々と使い方の説明を受けました。その中で一番驚いたのがエクセル内でリアルタイムに値段のアップデート機能が導入されたというところです。当時それは画期的な事で、そのリアルタイムの情報を元に様々な計算、ポジションアップデートなど可能性は幅広いものがありました。

それを見て思いきり感激したJunは、次長さんにその説明をする事にしました。そのおやじですが、そういうコンピューターとか全くできない世代の方。勝手に興奮しているJunには「なんだこいつは」と言わんばかりの顔をしてJunの説明をとりあえず聞く事にしてくれました。

「この市場データのターミナルと連携したエクセルではリアルタイムに値段がアップデートして」などなど随分エキサイトして説明するJunを冷ややかな目線で一応聞いている次長。しかしその途中いきなりPCがクラッシュしたのです。当時そういったあのブルースクリーンになるやつですが珍しい事ではありませんでした。がそれをきっかけに堪忍袋の緒が切れたようにその次長さんは「こんなことをやってるからこうなるんだ。これはもう一切手を付けるべきじゃあない」とお怒りの一撃を食らいました。

随分大まかでいいころ加減な仕事内容を言われ、またせっかくこれは画期的な開発のチャンス、と思ったリアルタイムエクセルもお箱入り宣言、お先が真っ暗になる思いをしました。

人事異動

しかしあっという間に状況が変わりました。人事異動で支店長と次長が日本に帰る事になり、代わりの二人が即ニューヨークにやってきました。新支店長は物静かなタイプでした。次長さんはトレーダーをやってきて日本では会社の為に随分と稼いだ方だったと伺いました。当然チャートによるテクニカルアナリシスもやっていました。今時の事情は知りませんが、当時のアカデミック、それはMBAプログラムを含むですが、テクニカルアナリシスは全く意味がないというのが王道の論理でした。なので現場でテクニカルアナリシスをガンガンやって随分儲けていたという現実は実に新鮮なものでした。

支店長さんは好きなようにやってくれ、という感じでしたが元トレーダーの次長さんはやはりその気質上リアルタイムでエクセル計算ができる、という点に即これはいい!と頷いて頂けました。そしてそれを使って何でもいいから使えそうなものを作ってくれと頼まれました。クラッシュするようなシステムはもう使うな、とつい先日言われていたのと大きく方向転換、上司の一声でここまで変わるものか、と思わされました。

またその次長さんはエクセルで計算する事なくたたテーブルを作る為のツールとして使っているというあり得ない状況についても理解を示し、様々な改善策をJunに任せる事にしました。

システムエラー

上記のエクセルスクショの例で言えば、450という数字を計算機で答えを出してエクセルに数式ではなく「450」と入力していたわけですが、もしその計算を間違えていたらそれこそ誰も気づかなかった、という状況でした。そしてそういった計算結果を日本本国のサーバーにもそのままデータを送っていました。実際Junが債権の現在価値報告ミスを発見し、データを送りなおす事にもなったのです。

そのような出鱈目がいくつも見つかったのですが、話はその社内だけでは終わらない展開となりました。アップグレードしたPCに入っていたリアルタイムの債権システムは、利回りなど様々な計算をやってくれる便利なものでした。そういえばこの支店で利回りの計算式が間違っていたし、まさかとはいえこのターミナルの債権システムの計算も検証する価値がありそうだ、と思いそれを始めました。

するとありえない事ですが、計算の間違いが確認されました。どういう事だったかと言えば、例えばの話ですが、正確には$100.125という債権の値段がスクリーンでは四捨五入の$100.13という数字で表示されていました。小数点二桁までのスクリーンでは特別問題の無い表示です。ただそれを10本とった場合は当然$1001.25と表示すべきなのですが、なんと$1001.30と表示していたのです。どういう事だったかと言えば、$100.125という本当の値段を元に様々な計算をするのでなく、スクリーンに表示された$100.13をその債権の本来の値段という事に置き換え、すべての計算をしていたのです。

問題のシステム、そのプリントアウトがなんと倉庫に保管してありました。

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正確な情報とそれを得るスピードがウォール街では全ての筈です。つまりそれに関しては絶大な投資を行い、間違っても不正確な数字を使わぬよう常にその正確さを確認する作業を隅から隅までやっていると思いきや、、、実は殆どのデータが検証される事もなく使われているというのが現実でした。

流れてくる情報を鵜呑みにするという現実ですが、この業界の実に大きな問題であります。そういった体質が様々な弊害へと繋がっているのですが、それらの具体的な事はのちのエピソードに綴ります。

当時のPC広告より。たったの8メガバイトのメモリーでPCが$2495(現在のレートで39万円)

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裏方システム開発会社

その債権システムの問題に留まらず、様々な質問を大量にぶつけたところ、実はそのシステムの構築は外注であり直接その外注先と掛け合った方がいい(かつよくわからないから勝手にしてくれという現実)と言われ、その外注先のシステム開発会社の社長と会う事となりました。そこで即思ったのがこれはそのウォール街専用のソフトウェア開発会社に就職もありかも、という閃きでした。

その金融系専門システム開発会社の社長と面談、オーストラリア出身の移民であるその社長はJunの置かれた立場に初対面ながらいきなり随分理解を示してくれました。彼の会社が開発中のデリバティブシステムのデモも惜しみなく見せてくれました。そしてその社長いわく「Junの視点は実に面白い。ただうちの会社でソフトウェア開発に携わるのでなく銀行に就職してどういう開発を目指すべきかという戦略的な職に就いた方がいい。俺がとある銀行紹介する。」となったのです。

知らぬ間に就職面接、あっという間のオファー

ターミナルに入っていたシステムの計算ミス発見から始まった話が、あっという間に某NYC本店のアメリカ資本銀行就職面接となりました。因みにかつてはロックフェラーとも随分関係の深かった銀行と伺いました。前述のシステム開発会社は、その銀行に真新しい為替の最新リアルタイムグローバルシステムを開発中でした。でそのシステム開発会社社長が、某銀行のエグゼクティブに直接Junを紹介した、という成り行きでの面接でした。

その実際の面接が今までの様々な面接とは違う状況である事は明らかでした。思い起こせば不合格になったビジネススクールでの面接。あの時は兎に角、熱意を語るに集中するようなもので、実績という点では乏しいものでした。インターンになった時も大同小異。しかし今回は自信を持って「Junはこれを作った。それを作れるJunはあなたの会社にとって実に有益なものである筈。私を雇ってみるのはどうでしょうか?」というようないわば攻撃的な角度で攻める面接にできる、と。

そして思いきり気合を入れノートブックパソコンにありとあらゆるデモのプログラムを作り、面接へ向かいました。正にウォール街の一本(一ブロック)北に位置した某銀行の34階でした。紹介されていた事もあり、何をやって来たかという大まかな事は既にご存じのようでした。それはさておき、持ってきたノートブックパソコンでデモをしました。オプションの計算、リアルタイムのアップデート、等を説明しました。当然毎年何人ものMBA卒業生を雇っている銀行でしたが、Junの説明したようなプログラムをそもそも作る学生は皆無、そのデモを見せられたマネージャーは即Junに仕事のオファーを出してくれました。

デモに使ったプログラムの一部。古いファイルですが今のエクセルでも読み込めました

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実にあっけないもの、というのが素直な感想でした。そこにたどり着くまで何度も絶望感を味わい、かつてクラスメートが諦めて日本に帰ったように次は自分の番か、と常に思いながらという不安の毎日。何の保証がなくとも、取敢えず目の前にある事へ全力投球をし続け、気が付いたら正にウォール街にある銀行から仕事のオファーをいただくとなったわけです。

インターン終了、再び学校へ

なんやかんやとインターンで計算の間違いを見つけたり、単純な事ですがエクセルの使い方を改善したり、その他様々なシステムを作り、結局多大な貢献をする事ができました。

そのお陰で次長さんがMBA習得後にもそこで働いてくれないかと言われました。ウォール街に本店のあるアメリカの銀行の話もあったのでこれはどうする事か、と考える事になったのです。

そのNY支店の地銀では二人日本人女性のスタッフがいました。一人はアメリカの大学を出て就労ビザを得て、取り合えずその地銀に仕事をゲットした人。もう一人は事務をする方、本来はダンサーになりたかったらしいですが取り合えず生活費の為にそこで仕事をしていました。

Junが次長さんから仕事のオファーをもらった事を踏まえて、その二人がある日3人でランチを食べよう、と声をかけてくれました。普段からフレンドリーにやってきたし当然喜んでそうする事にしました。

3人揃って食べ始めて開口一番、何を言い出すかと思いきや、二人声をそろえて絶対その地銀就職はやめた方がいいと。普段気さくな二人からは想像ができない真剣な眼差しでそのように言われた時はちょっと驚きました。アメリカで大学出て働いていた彼女、実はビザの関連でその会社の落ち度のせいで色々と面倒な事になり、結果給与の点で随分な損害を被る羽目になってしまったとのこと。事務の彼女も色々とあったようで、絶対あの銀行は信用するなと熱演。そして笑えたのがそこで働くとある親父、「あいつはエロい目線で私のボディーをチェックしている」とまでも。

次長さんにもの凄く気に入られているのは間違いない。しかし結局会社という機構、融通が利かない事が当然あり、またそれに対してほったらかしという直の上司など。取り合えずこの会社はいざという時にとことん裏切られると。

勿論それはどの会社でも言える事でしょう(という現実をウォール街のキャリアで痛いほど知る羽目になったJun、それも後程のエピソードで)。ただあの二人に真剣にこの会社だけはやめておきなさい、と親身に言われると、それは真剣に受け取るべきか?と考えました。そういえばJunよりそのお二方確か5歳は年上だったような。そういったお姉さん達のまだ青いJunへの真剣な忠告、これは従った方がタメになるだろう、と考えました。

そんなわけで結局地銀での就職は辞退する事となりました。次長さんはその決断に理解を示してくださり、そしてそれにも関わらず、彼が東京でトレーダーとして活躍していた時に作ったテクニカルアナリシスのメモ無理ノートのコピーまで頂きました。

短い間でしたが、そのような方の下で仕事ができた事は今でも感謝しています。そういえばその次長さんに「因みにその銀行ではどれぐらいの給料もらえるの?」と聞かれ固定給いくらと教えたらメタクソ驚いていました。「あーそれうちの銀行ではやっぱり無理だ」と言われました。

そんなわけで無事インターン終了、あとは学校に戻り最後の学期をこなし卒業を待つのみとなりました。

卒業まで

「かつてのMBAプログラム実経験その3」では残りの学業、そして大学院で過ごした2年間を振り返り結局何を習ったのか、また教授の名言集やその他書き残した学校での事などを綴っていきたいと思います。

Jun